郷愁の極み!夜汽車の想い出

2019年1月23日(水)


    新幹線網の発達は嬉しい限りであるが、それに併せて在来線が衰退することは非常に残念である。とりわけ夜行列車が次々と廃止されるのは涙を禁じえない。「桜島」も「八甲田(はっこうだ)」も「きたぐに」も今はもういない。
    記憶とネット情報を頼りに、過去の夜行列車の利用状況を思い出してみた。

(1)  急行列車の自由席
    1970年頃は、急行列車全盛期であり、若者(特に大学生)はみな自由席を利用した。
    1972年頃、小倉(こくら)発21時40分の急行桜島で東京着16時06分。引き続き上野発19時10分の急行八甲田(はっこうだ)で青森へ。リュックサックの中には道内時刻表と文庫本「飢餓海峡」(作:水上勉(みなかみつとむ(後の「みずかみつとむ」)))が入っていた。青森に近づくと車掌が青函連絡船の乗船名簿用紙を配布した。青森着06時15分。引き続き、青函連絡船に乗船した。まさに「津軽海峡・冬景色」である。但し、季節は冬ではなく秋であった。
    夜行列車の場合は自由席車両の床に寝るというのが当たり前であった。23時を過ぎた頃に通路に新聞紙を敷き、座席の通路側の脚を背もたれにして、リュックを枕に横向き(右半身を下)になって寝た。顔にはハンカチをかぶせた。
    電車ではなく客車列車なので、発車と停車の際に、連結器が音を発した。各車両の連結器が、先頭から最後尾に向けて順番に音を立てた。ガチャガチャガチャガチャ・・・ガッチャン。
    当時は幹線でもロングレールではない区間が多かった。走行中は、レールの継ぎ目を通過する際のリズミカルな音が車内のBGMであった。タタッタン、タタッタン、タタッタン・・・。遠くから、踏切の警報が近づいてくる。カンカンカンカン・・・。その音が後方に過ぎ去ると低音になる。ドップラー効果である。
    当時、北海道内では急行列車はさすがにDL牽引(けんいん)であったが、普通列車では道東にまだSLが健在であった。運転士がひとりで転車台を押して、C11を回転させていた光景が目に焼き付いている。
    北海道内では、宿泊施設を利用せずに夜行の急行列車の床を利用した。「札幌〜函館(はこだて)」間、「札幌〜根室(ねむろ)」間、「札幌〜網走(あばしり)」間、「札幌〜稚内(わっかない)」間の4路線で、往復で計8本の夜行急行列車が存在した。切符はもちろん北海道ワイド周遊券であり、北海道内は急行列車の自由席に何度でも乗り降り自由である。
    車中で夜中に目を覚まして窓の外を見ても草原が果てしなく続き、友人への手紙に「どこを走っているのか、サッポロ、ワッカナイ。ネムロ。」などと書いた。その便箋には、札幌駅、稚内(わっかない)駅、根室(ねむろ)駅のスタンプを押した。封筒には記念切手を貼り、道内の郵便局で風景印を押して貰って差し出しをした。

(2)  普通列車ながさき
    1972年頃、門司港から浦上(うらがみ)まで夜行の普通列車を利用した。列車は長崎行きであったが、長崎までの乗車券を手元に残すためにひと駅手前の浦上(うらがみ)で下車した。
    浦上(うらがみ)駅における車内は通路も含めて満員状態であり、デッキからホームに降りることは困難であった。客車列車の最後尾車両であったので、最後尾の連結器の上の開放部分から一旦線路に飛び降りてから、ホームによじ登った。
    当時の客車の最後尾は連結部分(蛇腹(じゃばら)の幌(ほろ)のある部分)が完全な開放状態だったのである。今では考えられないことである。

(3)  急行さんべ
    1973年頃の夏に、グループで出雲(いずも)方面に旅行した。当時の「さんべ」はSLが牽引する客車列車であった。冷房の無かった時代なので、窓を開けるのが当たり前であり、トンネルに入ると煤(すす)が客室に充満した。切符は「松江・大社ミニ周遊券」であった。
    「さんべ」は途中で分割と再連結を行う列車として有名であり、西村京太郎の小説でも、時刻表トリックの列車として登場した。

(4)  上諏訪(かみすわ)夜行
    1973年頃、新宿から松本方面に上諏訪(かみすわ)行き夜行の普通列車を利用したことがある。新宿駅のアルプス広場に並んだのちに駅員に誘導されて乗車した。山男風の乗客ばかりであった。
    車両が客車から電車に代わったあとのことである。途中駅で時間調整のために停車している際にドアを手で閉めるのだが、数cm開いた状態であり、隙間風が身にしみた。
    上諏訪(かみすわ)夜行は、現在の「快速ムーンライト信州」の前身である。

(5)  普通列車南紀
    1974年頃、天王寺から新宮(しんぐう)行き夜行の普通列車に乗ったことがある。新宮(しんぐう)駅で駅弁を購入した。「めはり寿司(ずし)」である。当時の私にとって、駅弁は高嶺(たかね)の花であった。この時なぜ駅弁を購入したのか、定かではないが、安価であったことが理由のひとつであったことはまちがいない。「めはり寿司(ずし)」はたいへん美味であった。今でも、私の好きな駅弁第1位である。現時点において、新宮(しんぐう)へ行ったのも「めはり寿司(ずし)」を食べたのもこの時だけである。

(6)  大垣(おおがき)夜行
    1975年3月31日午前7時頃、友人とふたりで、北九州市内の駅を出発した。普通列車を乗り継いで東へ東へと進み、大垣(おおがき)から東京までは夜行の普通列車を利用した。東京着は4月1日午前4時半頃であった。東京駅で山手(やまのて)線に乗り換え、山手(やまのて)線を2周したのちに下車した。銀行のトイレでスーツに着替えたのち、入社式におもむいた。
    1978年8月における連れ合いの実家(所在地:兵庫県赤穂(あこうし))への帰省では、連れ合いとふたりで、東京から大垣(おおがき)まで大垣(おおがき)行きの夜行普通列車を利用した。
    大垣(おおがき)夜行は、現在の「快速ムーンライトながら」の前身である。

(7)  寝台急行銀河
    1985年、家族旅行で初めて寝台車を利用した。三段式B寝台である。連れ合いの実家(所在地:兵庫県赤穂
(あこうし))への帰省の復路(大阪➡東京)であった。私と我が子が上段で連れ合いが下段を使用した。当時の銀河の寝台幅は、既に52cmから70cmに改良されていたが、それでも大人と子供が一緒に横になると窮屈であり、私の背中はベッドを支えるベルトに押し付けられていた。

急行券・B寝台券

(8)  寝台特急はくつる
    1980年頃出張で八戸(はちのへ)に行くことが多発し、何度か「はくつる」や「
ゆうづる」のB寝台を利用したことがある。山本譲二のヒット曲「みちのく ひとり旅」が自然と脳裏をよぎった。

(9)  寝台特急瀬戸
    1986年、連れ合いの実家(所在地:兵庫県赤穂
(あこうし))への帰省の復路(姫路➡東京)で特急瀬戸を利用した。二段式B寝台である。シャワーが快適であった。
    1993年にも、やはり家族と共に同じ区間を利用したことがある。

(10)  スノーパル23:55(にいさんごうごう)
    1986年、東武鉄道の浅草から野岩(やがん)鉄道の会津高原尾瀬口(あいづこうげんおぜぐち)までスノーパルを利用した。社員旅行であった。

(11)  村上夜行
    1990年頃、「青春18きっぷ」を利用して、村上行き夜行の普通列車で新潟方面にひとり旅した。
    村上夜行は、現在の「
快速ムーンライトえちご」の前身である。

(12)  寝台特急あけぼの
    1990年頃、「あけぼの」の普通車で青森方面にひとり旅した。24系客車であった。

(13)  寝台特急あかつき
    1995年頃、「あかつき」のレガートシートを利用した記憶がある。兵庫県在住時であり、九州からの復路であった。

(14)  急行はまなす
    2005年頃、「はまなす」(青森〜札幌)の「のびのびカーペット」を利用して北海道にひとり旅した。「のびのびカーペット」は快適であった。

(15)  快速ミッドナイト
    記憶が定かではないのだが、2005年頃に、ひとり旅で「ミッドナイト」(札幌〜函館)を利用した気がする。ドリームカー(グリーン車仕様であるが普通車扱い)であった。

(16)  寝台特急サンライズ瀬戸
    詳細はこちら。

(番外)  バスと船舶
①  ドリーム号(国鉄バス)
    1973年頃、東京駅から京都駅まで利用したことがある。
②  小倉(こくら)-比田勝(ひたかつ)フェリー
    1973年頃、北九州市の小倉港から長崎県対馬
(つしまし)の比田勝(ひたかつ)港まで利用したことがある。
③  東海汽船
    1993年頃、竹芝(たけしば)客船ターミナルから大島まで往復したことがある。社員旅行であった。
④  関釜(かんぷ)フェリー
    1985年頃、山口県下関
(しものせきし)の下関(しものせき)港国際ターミナルと韓国釜山(ぷさんし)の釜山(ぷさん)港の間を往復したことがある。私にとって、唯一の海外旅行である。♫韓国へ、韓国へと草木もなびく。あ~コ~リア、コ~リア。
⑤  トラック
    1975年に、国鉄が1週間のストを決行した。私は、夜行のトラックをヒッチハイクして下関から大阪まで移動した。