疲れを知らない!コンピュータと共に歩む人生

2022年2月5日(土)


    エレクトロニクスの進歩は目を見はるばかりである。生きているうちに無線で電話ができる時代が来るとは驚きである。私は、長くコンピュータに関わる仕事をしてきた。その出会いと歴史に想いをはせてみた。

(1)  1974年6月
【メーカー】富士通
【機種】FACOM(ファコム)
【言語】FORTAN(フォートラン)
【カテゴリー】汎用コンピュータ
    私は、大学(福岡県福岡市)にあるコンピュータでFORTAN(フォートラン)を学んだ。1週間だけの講義と実習であった。入力媒体は紙カード(パンチカード)であった。プログラムをコーディングシートに記述したのちに、コーディングシートを見ながらカードパンチ機のキーボードで文字を打つと、紙カードに穴が開いた。その紙カードを束ねたもの(カードデック)をカードリーダーに読み込ませると、プログラムが実行された。
    1975年3月31日早朝、私は友人とともに、自宅(福岡県北九州市)の最寄り駅から上京した。既に東海道新幹線だけでなく山陽新幹線も全線開通(同月10日)していたが、私たちは、普通列車(快速を含む)だけを利用した。「大垣(おおがき)⇒東京」間は、通称「大垣(おおがき)夜行」という夜行列車であり、それはのちの「快速ムーンライトながら」である。

(2)  1975年7月~1978年3月
【メーカー】アイビーエム
【機種】IBM1800(せんはっぴゃく)
【カテゴリー】産業用ミニコンピュータ
【言語】FORTRAN(フォートラン)、アセンブラ
    このコンピュータは、センサベースシステムを装備していた。センサベースシステムとは、人的なデータ入出力ではなく、アナログ入出力やデジタル入出力の機能を備えた自動入出力システムのことである。
    1975年4月1日早朝、東京に到着した私たちふたりは、山手(やまのて)線を2周したのちに下車して、某銀行でスーツに着替えた。私は、そのまま、化学工業の大企業(東京都千代田区)の入社式に臨んだ。同年7月1日に、その企業の工場(兵庫県赤穂市(あこうし))に配属された。住居は、工場のそばにある社宅であった。
    その工場において、IBM1800(せんはっぴゃく)を利用して、工場の操業を監視し管理するためのさまざまなソフトを開発した。プログラムリストが夢に現れた。プログラムの不具合に遭遇することもあった。いくら考えてもその原因を見つけられず、翌日見直したら即座に原因が見つかったということもあった。また、良いアイデアが浮かばない時、ボケーっとした時間を過ごすと急に良いアイデアを思いつくということもあった。開発という業務には、そういう時間も必要なのだということを身を持って知った。
    プログラムを開発することに何の苦労も感じなかった。自分にとっては、もはや趣味になっていた。勤務先が地方都市であったこともあって、遊興に時間を使うすべもなく、勤務先と社宅は車で5分の距離であったので、休日も自発的に出勤してプログラムを開発した。休日に社宅の自室に居ると冷暖房費がかさむが、オフィスは冷暖房完備であり当時の生活圏の中では最も快適だったのである。
    1978年3月に、工場(兵庫県赤穂市(あこうし))から本社(東京都千代田区)に転勤した。その際に、その工場に勤務していたある女性が私と共に人生を歩む覚悟を決め、ふたりで千葉県船橋市にある社宅に入居した。いわゆる現地調達である。詳細はこちら

(3)  1979年4月頃~1982年頃
【メーカー】日立製作所
【機種】HIDIC-80(ハイディックはちじゅう)
【カテゴリー】産業用ミニコンピュータ
【言語】FORTRAN(フォートラン)
    このコンピュータも、センサベースシステムを装備していて、当時の東海道新幹線総合指令所でも使用されている機種であった。東海道新幹線では、3台のHIDIC-80(ハイディックはちじゅう)が稼動していて、その3台のHIDIC-80(ハイディックはちじゅう)の決定が異なるときは多数決で決定していた。
    当時、ソフトを編集するためのテキストエディタが出始めた頃であり、その工場への出張の際に、「東京~相生(あいおい)」間の新幹線「ひかり号」の座席でそのテキストエディタの取扱説明書を読みふけった。その取扱説明書は手書きであり、青焼き(湿式コピー)されたものであった。
    IBM1800(せんはっぴゃく)で築いたアプリケーションソフトをHIDIC-80(ハイディックはちじゅう)に移植した。更に、HIDIC-80(ハイディックはちじゅう)にシーケンサ機能を持たせた。シーケンサとは、機械設備の起動停止などの手順を予め定められたシーケンス(順序)で自動的に行う装置のことである。シーケンス実行ソフトは同僚が作成したが、私はシーケンス編集ソフト(ラダーエディタ)とシーケンスデータ(ラダー)を作成した。
    ソースプログラムの保存媒体は、紙カードではなくフロッピーディスク(8インチ、片面単密度)であった。
    私は、通算して4台のHIDIC-80(ハイディックはちじゅう)を導入した。それぞれの設置場所は次のとおりである。
【1台目】これは、開発用として本社(東京都千代田区)に設置した。計4名で開発したのだが、ゴールデンウィークではふたりずつの2交代で出勤して利用した。
    当時、書類は手書きの時代であり、外国企業へのビジネス文書については、女性タイピストが英文タイプライターを使って書類を清書した。タイピストはひとつの職業として存在し、もっぱら女性のあこがれの職業のひとつでもあった。ある日、私が、英文のビジネス文書を作成することになり、誰にも尋ねることなく英文タイプライターを使った。私は、IBM1800(せんはっぴゃく)用のカードパンチ機でキーボードに慣れていたので、躊躇(ちゅうちょ)なくキーをタッチした。それを見た女性タイピストが驚いていた。
【2台目】これは、青森県八戸市(はちのへし)にある工場に設置した。まだ東北新幹線が無かった時代であり、往路も復路も夜行列車であった。「寝台特急はくつる」か「寝台特急ゆうづる」であり、「みちのく一人旅」であった。1979年7月8日~9月30日にわたる3か月の長期出張の際に、八戸(はちのへ)線と久慈(くじ)線(現:三陸鉄道)を乗りつぶした。その長期出張の間に息子が誕生した。
【3台目と4台目】これらは、岐阜県本巣町(もとすちょう)にある工場に設置した。3台目は2台目と同じ機能であり、4台目は前述したシーケンサである。長期出張は無かったが、通常の出張を繰り返す際に、樽見(たるみ)線(現:樽見(たるみ)鉄道)と名鉄市内線、名鉄羽島(はしま)線を乗りつぶした。
    1980年7月20日、私たち家族は、千葉県船橋市(ふなばしし)の社宅から東京都中野区の社宅に転居した。

(4)  1980年10月~1985年9月
【メーカー】アイビーエム
【機種】IBM4331(よんさんさんいち)
【カテゴリー】汎用コンピュータ
【言語】FORTRAN(フォートラン)
    私は、本社(東京都千代田区)において、技術系スタッフ向けのツールとしてこのコンピュータを導入し、技術系スタッフが自由に設計計算などを行える環境を整えた。ソースプログラム自体もコンピュータに保存するというものであり、もはやオフライン媒体で保存するということは無かった。自分は、技術計算分野の中のOR(オペレーションズリサーチ)と統計のソフト開発にのめりこんだ。
    1982年1月に、情報処理技術者試験(第一種)に合格した。社内で初の受験者であり合格者であった。

(5)  1983年頃
【メーカー】日本(にっぽん)電気
【機種】ACOS 430(エイコスよんさんまる)
【カテゴリー】汎用コンピュータ
【言語】FORTRAN(フォートラン)
    このコンピュータは、社内の給与計算や販売集計に使われていた。このコンピュータには、内蔵されていながら誰も利用しなかったOR(オペレーションズリサーチ)ソフトが存在した。私は、それを利用して、製品の輸送シミュレーションを行った。そのOR(オペレーションズリサーチ)ソフトが宝の持ち腐れになっていたので、当時の上司はいたく喜んだ。

(6)  1983年6月~1985年9月
【メーカー】日本(にっぽん)電気
【機種】N5200(ごせんにひゃく)
【カテゴリー】デスクトップパソコン
    オフィスオートメーションということばがはやって、オフィスに事務用のパソコンを導入するということがブームになり、その導入を担った。オフィス業務のツールとしてワープロや表計算が浸透していった。数人で1台のパソコンを共有するという時代であった。さまざまな、ワープロソフトや表計算ソフトのデータファイルをフロッピーディスク(8インチ、両面倍密度)に保存するという時代であった。

(7)  1985年10月~1989年1月
【メーカー】日本(にっぽん)電気
【機種】PC-9800(きゅうせんはっぴゃく)
【カテゴリー】デスクトップパソコン
【言語】BASIC(ベーシック)、Z80(ゼットハチマル)クロスアセンブラ、FORTRAN(フォートラン)
    当時、日本(にっぽん)電気がこのコンピュータを発売し、日本国内を席巻した。パソコンということばが浸透し、個人がパソコンを購入する時代になった。 フロッピーディスクは、8インチから5.25インチに変わり、最終的に3.5インチ(両面高密度)となった。
    当時、システム開発を受託する子会社が社内に設立され、上司に誘われて異動した。その会社の業務は、社内相手ではなく社外相手のシステム開発を受託するというものであった。特に、電子機器の回路設計が主だったので、ソフト開発も事務分野ではなく計測分野が多かった。自分もかつての経験が役立った。親会社に所属して社内相手のソフトを開発する場合とは違って、子会社に所属して社外相手にソフト開発するというのは世間を知る良い機会となった。
    コンピュータの分類方法として、汎用コンピュータか専用コンピュータかという分類方法がある。汎用コンピュータとは、メーカーが準備した環境でプログラム開発するものであり、現代で言えばパソコンである。専用コンピュータとは、電子機器に内蔵されたコンピュータのことである。現代で言えば、家庭や社会に存在する多くのデジタル機器が備えているコンピュータのことである。例えば、家電においても、洗濯機や炊飯器などさまざまな設定ができるようになっている。それはコンピュータが内蔵されているからこそ実現できているのである。デジタル表示があれば、専用コンピュータを内蔵していると考えて間違いない。その専用コンピュータで稼動するソフトのことをファームウェアという。ファームウェアは、埋め込みソフトとも言われ、ハードウェアの一部であってかつその実態はソフトウェアである。
    このファームウェアを開発するツールがクロスアセンブラである。私は、ダム水位制御システムにおけるZ80(ゼットハチマル)というマイクロプロセッサ用のファームウェアを開発したことがある。
    当時、郵便料金後納装置を製造販売していた会社から、その装置に内蔵されるファームウェアの開発を受託したことがあった。その装置は、郵便物を計量して後納料金を算出して表示するものであった。私は、それを受注し設計に参加した(作成はしなかった)。その装置の場合、郵便料金が改定されるたびにファームウェアを修正して、ROM(ロム、読み取り専用メモリ)に書き込んで複製を作り、納入済みの装置のROM(ロム、読み取り専用メモリ)と交換するという作業が発生した。私は、受託したファームウェアの納入後に、装置単体で全ての機能を実現するのではなく、装置とパソコンを通信ケーブル(RS-232C)で繋いでおいて、装置は計量だけに特化しパソコンで料金計算するシステムのほうがのちのちの料金改定に応じやすいことを提案した。その会社はその提案を受け入れ、私は、パソコンソフトを改めて受注した。
    プログラマの喜びのひとつにプログラム名の命名がある。通常、プログラム名は要求仕様に無く、プログラマに一任されることが多い。この頃に命名したプログラム名は次のとおりである。
【DRACS(デラックス)】ダム水位制御システム(Dam RAin Control System)
【HUMANS(ヒューマンズ)】湿度解析システム(HUMidity ANalytical System)
【SAFES(セイフス)】応力解析システム(SAFEty System)
【FAMOS(フェイモス)】工場監視システム(FActory MOnitoring System)(Famous(フェイマス、有名な)のもじり)
    徐々に営業の魅力を知るところとなり、開発業務ではなく営業業務を担うようになった。
    1985年10月1日に、東海道・山陽新幹線に2階建て食堂車が登場した。その直後に、上司(子会社の社長)とともに名古屋まで出張することになり、私は、東京駅の新幹線ホームで列車の入線待ちしている際に、自分たちが乗車する列車には2階建て食堂車が連結されている旨を上司に伝えた。上司の反応は、「ふ~ん」であった。東京駅を出発してまもなく、上司は私を食堂車に誘った。
    1987年4月に、私たちは、現在のマイホーム(埼玉県春日部市(かすかべし))に転居した。ほどなくして、母や兄家族が訪ねてきて1泊することになった。その頃、受託したソフト開発を協力会社に委託したのだが、その協力会社が業務放棄したために、(引き継ぎも無く)急遽私が引き受けることになった。私は、母や兄家族が訪ねてきた日、帰宅せずにオフィスで徹夜した。会社の危機を救ったと考えている。
    この頃、次なる試験に合格した。
【1987年1月】マイクロコンピュータ応用システム開発技術者試験(初級)
【1987年9月】マイクロコンピュータ利用者認定試験(3級&4級)
【1988年2月】マイクロコンピュータ利用者認定試験(2級)
【1988年11月】工事担任者試験(アナログ第3種)

(8)  1987年4月~1987年5月
【メーカー】住友電工
【機種】U-station E20(ユーステーションイーにじゅう)
【カテゴリー】ワークステーション
【言語】C
    私は、UNIX(ユニックス)環境において、MS-DOS(エムエスドス)形式のフロッピーディスクを読み書きするソフトを開発した。当初作成を担当すると目(もく)されていた従業員が職場放棄したために、急遽自分が作成することになった。フロッピーディスクの論理的な構造を理解する良い機会となった。ゴールデンウィークに自分ひとりだけ出勤してソフトを完成させた。会社の危機を救ったと考えている。

(9)  1987年5月~1987年8月
【メーカー】日本(にっぽん)電気
【機種】PC-9800(きゅうせんはっぴゃく)、N5200(ごせんにひゃく)
【メーカー】アイビーエム
【機種】IBM5550(ごぅごぅごうまる)
【メーカー】富士通
【機種】FM-R
【メーカー】日立製作所
【機種】2020(にぃまるにぃまる)、2050(にぃまるごぅまる)
【カテゴリー】(全て)デスクトップパソコン
【言語】(全て)FORTRAN(フォートラン)
    私は、子会社において、技術計算分野の中のOR(オペレーションズリサーチ)と統計に関するソフトをパソコン用に整えて市販した。詳細はこちら
    インターネットの無い時代であり、パソコンメーカーは自社のパソコンを販売するために、サードパーティが開発したアプリケーションソフトを積極的に宣伝していたのである。日本(にっぽん)電気は、次なるタイトルの冊子を発行してパソコン販売店経由でばらまいた。
【PC-9800(きゅうせんはっぴゃく)】アプリケーション情報
【N5200(ごせんにひゃく)】パートナー
    私は、それらの冊子に自分が開発したソフトの概要を掲載した。利用者はその冊子を見て、アプリケーションソフトを購入するのである。開発費ゼロ、広告費ゼロであり、当時の上司(子会社の社長)は臨時収入にいたく喜んだ。

(10)  1990年4月~1993年2月
【メーカー】横河(よこがわ)電機
【機種】CENTUM-XL(センタムエクセル)
【カテゴリー】DCS(Distributed Control System、分散制御システム)
【言語】BASIC(ベーシック)
    プラント操作盤は、長い間アナログ計器やスイッチ類で構築されてきたが、DCS(Distributed Control System、分散制御システム)はそれをデジタル化(コンピュータ化)したものである。
    1989年3月、私は、再び親会社の工場(兵庫県赤穂市(あこうし))に転勤した。私たち家族は、工場の近くにある社宅に入居した。マイホームについては、空き家状態で維持した。
    ファクトリーオートメーションやFUZZY(ファジィ)制御ということばがはやった。私は、CENTUM-XL(センタムエクセル)を利用して、原料成分制御プログラムを開発した。当時は、社内で初めてのプロセス制御ソフトであった。そのソフトの概要は次のとおりである。
【機能】4種類の原料を混合してできた混合物の4種類の成分指標が設定値に一致するための原料配合比率を決定し、自動的に設定する。
【手法】この問題は本質的に4元連立1次方程式に帰結する。したがって、4元連立1次方程式の解法を適用した。

(11)  1990年4月~1993年2月
【メーカー】横河(よこがわ)電機
【機種】μ-XL(マイクロエクセル)
【カテゴリー】DCS(Distributed Control System、分散制御システム)
【言語】BASIC(ベーシック)
    これは、CENTUM-XL(センタムエクセル)のミニ版である。
    私は、工場(兵庫県赤穂市(あこうし))に導入されたμ-XL(マイクロエクセル)を利用して、操業を管理するソフトを開発した。

(12)  1992年10月~1993年5月
【メーカー】明電舎
【機種】μPORTⅢ(ミューポートスリー)
【カテゴリー】産業用デスクトップパソコン
【言語】C
    私は、このパソコンを導入し、工場の操業を管理するソフトを設計した(作成はしていない)。

(13)  1990年7月~1992年3月
【メーカー】富士通
【機種】A-60(エースろくじゅう)
【カテゴリー】ミニコンピュータ
【言語】C、FORTRAN(フォートラン)
    私は、かつてU-station E20(ユーステーションイーにじゅう)で開発したMS-DOS(エムエスドス)形式のフロッピーディスクを読み書きするソフトをA-60(エースろくじゅう)に移植した。また。アドバンスト制御ソフトを導入して工場心臓部の最適制御システムの開発を進めた。

(14)  1993年6月~1994年6月
【メーカー】日本(にっぽん)電気
【機種】PC-9800(きゅうせんはっぴゃく)
【カテゴリー】デスクトップパソコン
【言語】C
    私は、FUZZY(ファジィ)理論によって工場(栃木県葛生町(くずうまち)(現:佐野市))の操業を制御するソフトの設計と納入試験を担当した(作成はしていない)。また、かつてCENTUM-XL(センタムエクセル)用に開発した原料成分制御のソフトをPC-9800(きゅうせんはっぴゃく)に移植した。

(15)  1994年7月~1994年12月
【メーカー】富士電機
【機種】MICREX-PⅢ(マイクレックスピースリー)
【カテゴリー】DCS(Distributed Control System、分散制御システム)
    プラント操作盤は、長い間アナログ計器やスイッチ類で構築されてきたが、DCS(Distributed Control System、分散制御システム)はそれをデジタル化(コンピュータ化)したものである。
    私は、工場(福島県大越町(おおごえまち)(現:田村市))に導入されたMICREX-PⅢ(マイクレックスピースリー)の機能(空欄記述とCAD(キャド))を利用して、操業の監視やシーケンス制御を実現した。

(16)  1995年1月~1998年3月
【メーカー】日本(にっぽん)電気
【機種】PC-9800(きゅうせんはっぴゃく)
【カテゴリー】デスクトップパソコン
【言語】VC++(ブイシープラプラ)、VB、C、BASIC(ベーシック)
    私は、かつての子会社に戻り、再び社外相手の受託開発に身を投じた。ソフト開発は担当しなかったので、パソコンは営業活動の事務用品であった。オフィスではひとり1台のパソコンが与えられた。
    放送機器のシステム会社から、某FM放送局の電話リクエスト応答システムを受注し、設計と納入試験に参加した(作成はしていない)。それは、ラジオ聴取者からの電話リクエストを受け付けて、投票順位にしたがって自動演奏するというものであった。不具合解消の確認のために、放送局で徹夜したこともあった。
    気象機器メーカーから、天空と地面の放射エネルギーを評価するソフトを受託し、設計と納入試験に参加した(作成はしていない)。使用者は建設省建築研究所(当時)(茨城県つくば市)の研究者であり、その使用者の研究論文は建築大賞を受賞した。気象機器メーカーから謝意を受けた。社内相手のソフト開発ではこのようなことはありえない。誰も感謝しないし誰も褒めない。社外相手の受託開発ということにますます魅力を感じた。
    また、同じ気象機器メーカーから、太陽電池評価システムの計測ソフトと解析ソフトを受注し、設計に参加した(作成はしていない)。

(17)  1997年1月~1997年9月
【メーカー】日本(にっぽん)電気
【機種】Express 5800(エクスプレスごせんはっぴゃく)
【カテゴリー】ワークステーション
【言語】VB
    私は、気象機器メーカーから、衛星携帯電話回線を利用した気象データ遠隔計測システムを受注し、設計と納入試験に参加した(作成はしていない)。使用者は通商産業省工業技術院電子技術総合研究所(現:産業技術総合研究所)(茨城県つくば市)の研究者である。Express 5800(エクスプレスごせんはっぴゃく)は使用者が使用するコンピュータであり、開発にはPC-9800(きゅうせんはっぴゃく)を利用した。

(18)  1997年4月~1997年9月
【機種】DOS/V(ドスブイ)
【カテゴリー】デスクトップパソコン
【言語】VB
    私が、かつて気象機器メーカーから受注し、PC-9800(きゅうせんはっぴゃく)用に作成したソフトを英語版DOS/V(ドスブイ)用に移植するという案件を受注し、設計した(作成はしていない)。

(19)  1998年4月~1999年8月
【機種】DOS/V(ドスブイ)
【カテゴリー】フロアスタンドパソコン
【言語】C、Z80(ゼットハチマル)クロスアセンブラ
    私は、大企業を退職し、ソフト開発会社(中小企業)に就職して、ソフトの受託開発を受注する営業活動に身を投じた。オフィスではひとり1台のパソコンが与えられた。この頃のパソコンはDOS/V(ドスブイ)が主流であって、MS-DOS(エムエスドス)が世界に広まった。営業担当であったので開発することは無かった。インターネットが普及し始めた時期であり、サーバークライアントシステム(現:クラウドシステム)の案件が常識化していった。
    私は、かつて自分が作成したダム雨水制御システムの改造案件を電力会社から直接受注し、設計に参加した(作成はしていない)。

(20)  1998年7月~1998年10月
【メーカー】横河(よこがわ)電機
【機種】FAM3(ファムスリー)
【カテゴリー】PLC(Programmable Logic Controller)
【言語】BASIC(ベーシック)
    私は、海水揚水発電塩分計測装置やダム放水流量制御装置の制御ソフトを電力会社から直接受注し、設計にも参加した(作成はしていない)。

(21)  1999年9月~2000年頃
【メーカー】日本(にっぽん)電気
【機種】PC-9800(きゅうせんはっぴゃく)
【カテゴリー】デスクトップパソコン
    私は、ソフト開発会社を退職し、かつて世話になった気象機器メーカー(中小企業)に就職した。そこでは、2016年8月に引退するまで気象機器を販売した。オフィスでは、数人で1台のパソコンを共有していた。
    その企業は、気象機器のうち一部のセンサの開発においては我が国を牽引する立場にあったが、コンピュータの応用については消極的であった。私は、ソフト開発会社時代に経験したサーバークライアントシステムを利用した遠隔計測システムを提案し、その販売に携(たずさ)わった。長く計測ソフトに携(たずさ)わったことが、気象機器の理解に役立った。

(22)  2000年頃~2007年頃
【メーカー】アイビーエム
【機種】ThinkPad(シンクパッド)
【カテゴリー】ノートパソコン
    私は、自前でB5版のノートパソコンを購入してオフィスで使用した。私が自前で購入した最初のパソコンである。ダイヤルアップ接続の時代であり、通信環境は自宅とオフィスのプッシュホン回線であった。

(23)  2001年頃~2005年頃
【メーカー】アイビーエム
【機種】ThinkPad(シンクパッド)
【カテゴリー】ノートパソコン
    私が自前で購入したパソコンを使用していたのを社長が見て、私に専用のパソコンを購入してくれた。

(24)  2002年頃~2006年頃
【メーカー】ソニー
【機種】Clie(クリエ)
【カテゴリー】PDA(Personal Digital Assistant、個人用情報端末)
    私は、外出先でのメール処理用に自前で購入した。通信環境は、AIR-EDGE(エアーエッジ)を契約した。すなわち、PHS回線を利用したダイヤルアップ接続である。

(25)  2005年頃~2012年頃
【メーカー】DELL(デル)
【カテゴリー】デスクトップパソコン
    パソコンがひとり1台の時代になった。社内LANは未導入であり、通信環境はダイヤルアップのままであった。

(26)  2006年頃~2009年頃
【メーカー】シャープ
【機種】Zaurus(ザウルス) SL-C3000(さんぜん)
【カテゴリー】PDA(Personal Digital Assistant、個人用情報端末)
    私は、Clie(クリエ)からこれに乗り換えた。通信環境は、AIR-EDGE(エアーエッジ)によるダイヤルアップ接続のままであった。パソコンのインターネットエクスプローラの画面が、小さな画面(3.7インチ)にそっくりそのまま表示された。

(27)  2006年10月~2013年1月
【メーカー】パナソニック
【機種】Let's note(レッツノート) CF-T5
【カテゴリー】ノートパソコン
    私は、ThinkPad(シンクパッド)からこれに乗り換えた。Let's note(レッツノート)は、他のパソコンに比べてバッテリの保持時間が長いことが最大の特長である。また、Let's note(レッツノート)はタッチパッドの形状に特徴があり、遠目(とおめ)に見てもLet's note(レッツノート)であることがすぐにわかる。最近、テレビの記者会見会場でメディア記者の机上にパソコンが並んでいる光景を目にすることが多いが、そのほとんどがLet's note(レッツノート)である。
    まだダイヤルアップ接続の時代であり、AIR-EDGE(エアーエッジ)を利用した。この頃からインターネットが普及し、プログラムの受け渡しもメールで行うようになった。その結果、フロッピーディスクを使うことはなくなった。
    このパソコンは現在も手元にあり、利用可能であるが利用していない。
    2007年5月、息子が結婚して独立した。

(28)  2009年頃~2012年10月
【メーカー】シャープ
【機種】Zaurus(ザウルス) SL-C3200(さんぜんにひゃく)
【カテゴリー】PDA(Personal Digital Assistant、個人用情報端末)
    私は、Zaurus(ザウルス) SL-C3000(さんぜん)からこれに乗り換えた。まだダイヤルアップ接続の時代であり、AIR-EDGE(エアーエッジ)を利用した。

(29)  2012年頃~2016年8月
【メーカー】デル
【カテゴリー】ノートパソコン
    オフィスの移転に併せてオフィスのパソコンがノート型となったが、単に省スペースということであり持ち運べる物ではなかった。社内LANが導入され、インターネットに常時接続となった。
    また、気象機器と併せてノートパソコンも納入することがあり、その際に選択されたのがデル製のノートパソコンであった。

(30)  2012年10月~2014年10月
【メーカー】東芝
【機種】REGZA Tablet(レグザタブレット)
【カテゴリー】タブレット
    私は、画面の大きさに魅力を感じてPDA(個人用情報端末)からこれに乗り換えた。この頃、ポケットWifi(ワイファイ)が出現し、外出先でもインターネット常時接続の時代となった。当時、某女性アイドル歌手の巨大写真が秋葉原(あきはばら)駅前の某家電量販店の店先に設置されていた。私は、彼女のほほえみに負けてポケットWifi(ワイファイ)機器を契約した。AIR-EDGE(エアーエッジ)については解約した。

(31)  2013年1月~現在
【メーカー】パナソニック
【機種】Let's note(レッツノート) CF-SX2
【カテゴリー】ノートパソコン
    私は、Let's note(レッツノート) CF-T5からこれに乗り換えた。勤務先では自社製品の他に海外からの輸入品も扱っていた。私は、単なる転売ではなく、使用者が使いやすいように、その輸入品の設定項目を設定し国内使用に適した機材を付属した上で販売した。そのほとんどの輸入品の英文マニュアルから和文の取扱説明書を作成した。それは単なる翻訳ではなく、国内で調達した機材も併せて記述し、図や写真も追加した。それらの取扱説明書作成は上司に命じられたわけではなく、自分の意思で始めた。その作業は休日の自宅でも行った。支給されたノートパソコンをオフィスで稼動させておき、Teamviewer(チームビュア)を使って、自宅のノートパソコンからオフィスのノートパソコン経由でオフィスのサーバにアクセスした。また、この頃、取扱説明書やホームページに存在した不適切表現や誤字脱字を指摘するということを始めた。上司を介することなく、他部署の担当者に助言した。休日に、それらの作業を続けても全く疲れなかった。画面を見つめ続けても視力への影響は無かった。
    一時期、私は、毎夜0時頃に帰宅してから夕食を食べ、入浴してから就寝し、翌朝(厳密には当日の朝)5時に起床して6時半頃に客先訪問に向かうということを繰り返していた。しかし、Teamviewer(チームビュア)を使うようになってからは、帰宅時刻は少し早くなって22時頃になった。

(32)  2014年10月~2020年2月
【メーカー】Google(グーグル)
【機種】Nexsus 7(ネクサスセブン)
【カテゴリー】タブレット
    私は、REGZA Tablet(レグザタブレット)から乗り換えた。
    2016年8月31日、私は現役を引退した。同年10月以降、随筆(いわゆるブログ)を始めた。もの書きは、ひまつぶしに最適であり、自分の性格に合っているように感じられる。1日中随筆を記述していても、肩がこるだの腰が痛いなどの症状は無く、疲れるということがない。疲れないということが職業病であろうか。

(33)  2016年11月~2018年12月
【メーカー】HUAWEI(ファーウェイ)
【機種】LUMIERE 503HW(ルミエールごうまるさんエイチダブリュ)
【カテゴリー】スマートフォン
    連れ合いとともに、ガラケー(ガラパゴス携帯)からこれに乗り換えた。

(34)  2018年12月~現在
【メーカー】HUAWEI(ファーウェイ)
【機種】P20 lite(ピーにじゅうライト)
【カテゴリー】スマートフォン
    連れ合いとともに、LUMIERE 503HW(ルミエールごうまるさんエイチダブリュ)からこれに乗り換えた。スマホに不慣れな高齢者の話題を耳にすることがあるが、私にとっては現代のデジタル機器にも不安を覚えることは無い。長くコンピュータ業界に身を置いて良かったと感じている。