終活の極み!泣き笑い生い立ちエピソード

2020年8月16日(日)


     私の生い立ちにおけるエピソードを書いてみた。終活の極みである。

(1)  出生

    私は、1952年に、福岡県八幡市(やはたし)(現:北九州市)で生まれた。

(2)  幼児期

(2-1)  遠賀町の伯母(母の姉)
    3歳頃(1955年頃)、母が療養入院するため、伯父(母の兄)が私を1年間ほど預かることになった。しかし、私を迎えに来る日の伯父の都合が悪かったのか、私を迎えに来たのは伯母(母の姉)であった。私は伯母に連れられて伯父の家に行ったのだが、私は既に伯母になついてしまっていて、伯母から離れようとしなかったらしい。結局、伯母が私を預かることになった。伯父宅(福岡県遠賀町(おんがちょう))は母の実家であり、伯父宅と伯母宅は歩いて5分の距離である。伯父宅と伯母宅に併せて9人のイトコ(男2名と女7名)がいた。いずれも私より年上であり、皆が私を可愛がってくれた。
    伯母宅にはお手伝いさんも居た。彼女もまた私を可愛がってくれた。ある日、お手伝いさんが私の両腕を持って私をぶらさげた状態で自分を中心にしてぐるぐると回転した。私は、喜んだのだが、そのあと片方の腕があがらなくなったことに気付いた。関節が外れたらしい。痛みは全く無かった。伯母は、私を背負い、お手伝いさんを連れて、夜道を歩いて、私を骨つぎ屋(今で言う接骨院)に連れて行った。そこで、医者は私の腕を掴みポンと肩に押し込んだ。この時も、痛みは無かった。当時、私を背負ってあぜ道を歩いて骨つぎ屋に向かう時の伯母の心中はいかばかりであったろうか。
    イトコ達は伯母のことを(当然のことであるが)「かあちゃん」と呼んでいた。私は、伯母のことを「おばちゃん」でも「かあちゃん」でもなく、なぜか「おっぽん」と呼んでいたらしい。
    伯母にすっかりなついてしまった私は、母が退院して私を迎えに来た時、ちょっぴり恥ずかしさを感じた。

(2-2)  黒田節
    私は、4歳頃(1996年頃)、父とともに町内会のバスハイクに参加した。行き先は秋芳洞(あきよしどう)であった。秋芳洞では子供は危険ということで、私は入洞せずに、バスガイドとともにバスのそばで待っていた。
    帰路、私はバス車中で黒田節を歌った。

(3)  小学生

(3-1)  食卓
    記憶に残っているおかずは次のとおりである。
        筑前煮(がめ煮)
        鯨の刺身
        高菜漬け
        おきゅうと
    この中で、筑前煮については思い出が強い。当時の地元では、筑前煮のことを単に「煮しめ」と言った。筑前煮とは地元以外の人が使った名称であると推察される。私が筑前煮という名称を初めて耳にしたのは、私が就職して関東暮らしを始めたのちのことである。
    筑前煮は、大人にとっては美味であるが、当時子供だった私はおいしいとは感じなかった。テレビで出てくる「刑務所のまずいメシ」というのはきっとこのような料理に違いないと考えていた。母は、筑前煮のことを「お煮しめ」と言っていたので、耳学問の私は「鬼締め」と書くのだろうと考えていた。

(3-2)  電化製品
    テレビ、冷蔵庫、洗濯機というふうに電化製品が増えていった。私の記憶では、電気炊飯器ではなくガス釜を使用していた。

(3-3)  風呂
    風呂は石炭炊きであった。木切れを入れたのちに、新聞紙に火をつけて木切れを燃やす。木切れが燃えている間に石炭を投入する。火が下に引っ張られるのが不思議であった。3年生の時(1960年)、橋幸夫の潮来笠(いたこがさ)という曲がヒットした。兄と風呂に入っている時に、湯船に浸かりながら、兄がその歌を教えてくれた。

(3-4)  掘りごたつ
    その頃、どの家庭も冬は掘りごたつであった。他に暖房設備は無いので、家族全員が茶の間に集まる。練炭は1日しかもたないので、毎日交換した。練炭を交換する時は、お膳台(いわゆる食卓)を持ち上げなければならない。こたつの中に潜り込んでスルメや餅を焼いた。

(3-5)  懐かしのテレビ番組
    詳細はこちら。

(3-6)  歌謡曲
    歌謡曲を覚えるのは至難の技であった。テレビ放送においては歌詞のテロップが無く、録画装置の無い時代である。好みの歌を歌手が歌う際に、必死で書きとめた。
    また、当時、芸能月刊誌に歌集が付録として付いていた。その月刊誌は「平凡」と「明星(みょうじょう)」である。イトコの誰かがその月刊誌を購入したら、古い号の歌集を譲ってもらっていた。

(3-7)  ラムネ
    父の給料日の夕食は、必ずすき焼きであった。父は、その日だけアルコールを口にした。焼酎のラムネ割である。小皿の上にラムネ瓶を立て、その口元にあるビー玉を押し込むと、ラムネが溢れ出して小皿にたまる。私は、小皿にたまったその溢れた分だけをもらえた。

(3-8)  大掃除
    夏休みには、町内で必ず大掃除があった。畳を全て天日干しにした。昼食は決まって冷や麦であった。昼食後に畳を敷き直した。大掃除が終わると決まってスイカが出た。

(3-9)  二度の入院
    私は、小学1年生の頃(1960年頃)に二度入院したことがある。
    一度目は、赤痢であった。感染原因は不明であった。当時の衛生環境は現在とは異なるので珍しいことではなかった。父親が八幡(やはた)製鉄に勤めていた関係もあって、製鉄病院に2週間入院することになった。赤痢は伝染病なので隔離病棟である。当時私は水疱瘡(みずぼうそう)を発症していたので、小児病棟に入るわけにいかず、一般病棟に入った。その病室にはオジサンが数人居た。最初の夕飯の献立はよく覚えている。ご飯粒の無いおもゆ、具の無い味噌汁、それにオレンジジュース、それだけであった。同室のオジサンたちの食事は普通の献立であった。私は、非常に哀しい気持ちになった。このことについては今まで誰にも言わなかった。今ここに初めて告白する。
    同室のオジサンたちは徐々に退院していった。新たな入院患者はいなかったので、同室者は少なくなっていった。最後のオジサンは私のなぞなぞに付き合ってくれた。そのオジサンも退院し、私はひとりぼっちになった。その晩、私は寂しくて泣いた。それを、別室の若い女性が目撃していた。彼女はその隔離病棟の看護婦(現:看護師)で、院内感染のために入院していた。彼女は、翌日、自分の荷物を私の病室に運び入れ、私の病室で生活することにした。彼女は私の面倒を見てくれた。
    私は、2週間の入院生活ののちに退院したのだが、その半年後に再び入院することになる。
    私は、学校でオルガンを運ぶ際に、足の親指の上にオルガンを置いてしまった。一瞬、痛いと思っただけで、担任の先生にも言わなかった。その数日後、私は自宅近くの川に裸足で入って水遊びをした。その数日後、私は足の痛みを訴えた。両親は私を外科に連れて行った。夜、父親が私を背負っていたと記憶している。外科では、すぐには痛みの原因がわからなかったが、猩紅熱(しょうこうねつ)の細菌がいることを突き止め、医師が両親に私の病名を伝えた。母親は、父親に「お父さん、ショウコウネツち、なーん?。」と尋ねた。父親は、「伝染病たい。」と答えた。母親は、私が再び隔離生活となることを哀しんだ。医師は、私が最近足を怪我したことはなかったかと両親に尋ね、母親が、「そう言えば、学校で足を詰めたと言っていた。」と答えた。水遊びの際にその傷口からバイ菌が入り込んだものと推察された。私はただちに入院することになり、両親は製鉄病院への入院を希望した。私が製鉄病院の隔離病棟に到着すると、ある看護婦(現:看護師)が、私を見て目を丸くして、「ボクぅ、どうしたん?。」と言った。彼女は半年前に私の面倒をみてくれた看護婦であった。
    私は、今回は小児病棟で暮らし、3週間後に退院した。

(3-10)  佐賀県の叔母
    小学校低学年の時、兄と一緒に佐賀県三日月村(みかづきそん)(現:小城市(おぎし))に住む叔母(父の妹)の家に行った。北九州市内から佐賀県内の駅(駅名は忘れた。長崎本線の久保田駅付近のはず。)まで普通列車で片道約2時間の旅をした。翌日は公園で手漕ぎボートに乗せてもらった。昼食は叔母さん手製のいなり寿司と巻き寿司であった。

(3-11)  北九州市
    3年生の末に北九州市が発足した。記念にいくつかの歌が作られた。
①  輪になって(藤山一郎)
    赤色のレコード(ドーナツ盤)が売り出され、我が家でも誰かが入手した。レコードプレーヤーで何度も聞いた。今でも歌える。
②  北九州音頭(江利チエミ)
    体育の時間にこの曲を使用した踊り(盆踊りのようなもの)を習った。歌については、今でも歌える。
③  北九州市歌
    音楽の時間に習った。今でも歌える。

(3-12)  起業祭
    八幡製鉄の創立を祝う起業祭という祭りがあった。その日は公立の小中学校が休校になった。祭り会場には、サーカスと見世物小屋が合わせて5軒ほど並んだ。太宰府市(だざいふし)の梅ヶ枝(うめがえ)餅が出張販売した。
    サーカスでは、空中ブランコ、猛獣ショー、(球体内部を走る)オートバイショーなどが演じられた。見世物小屋では、透明人間、三つ目小僧、三本足の女、蛇女などが演じられた。子供でも、何かおかしいと感じられる内容であった。出し物は毎年同じであった。
    どの家庭も、父親と一緒に見に行くのだが、1か所か2か所しか見せてもらえなかった。我が家でも同じであった。しかし、4年生の時は、サーカスと見世物小屋を全て見た。翌日、同級生にそれを言ったら皆びっくりしていた。これが父と行った最後の起業祭であった。

(3-13)  鶏のすき焼き
    父に連れられて母の実家に行くことがあった。必ず鶏のすき焼きが振る舞われた。実家で飼っていた鶏を潰すのである。首から足先まで全て調理されていた。
    父と行くとすき焼きが出たが、母と行ってもすき焼きは出なかった。しかし、父が他界したのちに母と行った時はすき焼きが出た。

(3-14)  歳末
    北九州市の餅は丸餅である。混ぜものは何もない。
    どの家庭も餅つきをするわけではなく、米屋から購入していた。購入するとは言っても、購入者は、米屋に出向いて餅を丸めるという労働を提供するのである。水餅(水がめの水に餅を沈めた状態)にして冬を越していたので春まで餅があった。
    床の間には二段の鏡餅が飾られた。下段の餅の下にスルメを敷き、上段の餅の上には、扇子をかたどった飾りが突き立てられ、伊勢海老をかたどった飾りが置かれた。
    北九州市では夏に大掃除をするので、歳末の大掃除という風習は無かった。大掃除が歳末行事であると知ったのは、私が就職してからのことである。
    お雑煮の餅は焼き餅ではなく、茹で餅であった。汁はお吸い物のようなイメージであり、スルメの千切りが入っていた。

(3-15)  母の実家
    夏休みになると、毎年母の実家に行った。1週間くらい泊まった。母の実家にはイトコが4人居た。歩いて5分のところに、私が預けられたことのある伯母の家があり、そこにもイトコが5人居た。2軒とも農家であり、どちらの家にも、農作業のための牛が1頭居た。台所は土間であり、竈(かまど)があった。風呂は石炭炊きの五右衛門風呂であった。オヤツには井戸で冷やしたスイカが出た。
    計9人のイトコは皆私より年上であった。私と歳の近いイトコはみな女子であった。彼女たちは、私を弟のように可愛がり、良い遊び相手となってくれた。糸の先に繋いだイリコを餌にしてザリガニを釣った。それを持ち帰って、腕をもぎ取り、飼育小屋にいる鶏に与えた。鶏たちは喜んでザリガニを食べた。翌日、鶏たちがいつものように卵を産んだ。その卵を拾って割ると、黄身が赤みがかっていた。
    盆踊りの時、彼女たちは浴衣姿で踊りの輪の中に居た。深くかぶった編笠が特徴であった。曲は炭坑節であった。
    冬休みに行った時に餅つきを見た。手で杵(きね)を振り下ろすのではなく、テコの原理を利用して、足で踏んで杵を落とす方式であった。初めておろし餅(つきたての餅を大根おろしでからめたもの)を食べた。格別の味であった。
    春休みに行った時は、土筆(つくし)を摘んだ。それが味噌汁に入っていた。
    母の実家に居た4人のイトコのなかに、私より5歳くらい年上の女子がいた。ある年の夏休みに母の実家に行った時、例年であれば夏休みで家にいるはずの彼女の姿が見えなかった。翌朝、私が茶の間に行くと、彼女は鏡台の前に居た。私は、彼女の背後にある柱に寄りかかって、鏡の中の彼女を見た。彼女は、鏡に映った私を見て、「昨日(きのう)、来たとう?」と言った。私は、「うん。」と答えた。その時、私は、彼女が高校を卒業して就職したことを知った。「僕の◯◯ねぇちゃんは遠くへ行ってしまった」と感じた。

(3-16)  兄弟姉妹
    私には8歳年上の姉と7歳年上の兄がいる。
姉は、私と8歳離れていたこともあり、私を背負って遊び、銭湯に連れていったり、私の運動会の弁当を作るなど、母親代わりに私の世話をしてくれた。
    父親が49歳で他界したのちは、姉と兄が家計を支えた。姉は、当時の月給のうち7割を生活費に拠出した。兄は、長く3交代勤務を続けた。
 私の両親には、兄と私との間に更にふたりの子がいたそうだが、そのふたりは死産だったらしい。その話題になった時、母は、私に「そのふたりがおったらあんたぁ生まれてきとらんわね。」と言った。私はまだ幼かったので、「世の中うまくできているもんだなぁ」くらいにしか感じなかった。
    母が他界したのちに、このエピソードを姉に打ち明けたら、姉は、「(母さんが)そんなこと言うたとぉ?」と驚いていた。

(3-17)  隣家の友人
    4年生の時(1963年)に、隣家に越してきた一家に私と同学年の男子がいた。彼は、私の同級生となった。いつもふたりで遊んでいた。トランプ、将棋、ダイヤゲーム。特に将棋盤と駒を使った歩上がり(ふあがり)というゲームにのめり込んだ。
    私は、水面に顔を漬けられないほどのカナヅチであったが、彼と一緒に学校のプールに行くうちに、ある日泳げるようになった。
    6年生の修学旅行の1週間前(1965年)に、団体行動の予行演習として、6年生全員で近くの寺社に遠足に行った。昼食後の休憩時にそこで缶蹴りをした。隣家の友人が蹴った缶が私の額に命中し出血した。ただちに教員が集まり、応急処置がなされた。担任の男性教員とふたりで近くのタクシー会社まで歩いて行き、
タクシーで私の自宅に向かった。自宅では教員が母に事情を説明した。そののち3人でタクシーに乗って病院に向かい、病院で手当てを受けた。
    自宅に戻って安静にしていたら、友人の母親が果物かごを携えて見舞にきた。友人の母親の心中はいかばかりであったろうか。翌日は通常通り登校した。1週間後の修学旅行にも参加した。
    今思えば、担任は報告書を作成したと推察される。

(3-18)  キングコング対ゴジラ
    当時、学校で上映される映画と言えば、教育映画ばかりであったが、ある日、「キングコング対ゴジラ」が上映された。画期的なことであった。
    この映画には特別な思いがある。当時(1962年)、永楽(えいらく)という映画館で子供向けの洋画が上映されていて、小学生だった私は、母親から、隣家の友人とふたりでそれを見てくるように言われた。友人とふたりで出かけたが、永楽の前に来ると、友人が「キングコング対ゴジラを見ようか。」と言った。私は直ちに合意し、東宝という映画館のほうに入場した。当時の映画は2本立てであって、「キングコング対ゴジラ」の同時上映は、ザ・ピーナッツ主演の「私と私(わたしとわたし)」であった。入場したら、「キングコング対ゴジラ」が上映途中であった。我々はそれを最後まで見て、次に「私と私」を見た。さらに「キングコング対ゴジラ」を最初から見直した。映画館から出たときはすでに夜になっていて、帰宅したのは19時頃であった。母親は何もとがめなかったが、兄が永楽まで行って「小学生男児ふたりが入場しなかったか」と尋ね、念のために場内呼び出しをしてもらったと聞いた。(当時の映画館では、必要に応じて上映中に従業員がホールの扉を開けて大声で「◯◯さま〜」と呼んでくれていたのである。)
     私は「親が心配する」などということを全く予想しなかった。反省した。
 
(3-19)  名古屋市の伯父
    5年生の時(1964年?)と思うが、兄と一緒に、名古屋市に住む伯父(父の兄)の家に行った。往路は夜行列車であったが寝台車ではない。座席に横になって寝た。利用した列車は急行であったと推察される。復路は昼行列車を利用した。復路もやはり急行であったと推察される。往路も復路も、ボックス席定員4名をふたりで利用した記憶があり、指定席か自由席かについては記憶が定かではない。
    駅弁を食べたと思うが、映像としての記憶が無い。列車の窓を開けて駅の立売(たちうり)から購入するというスタイルである。陶器の急須に入ったお茶も購入した。
    後に、母から、伯父が私を養子に欲しいと言ったことがあると聞いた。もし、私が伯父の養子になっていたら、私はどのような人生を歩んだことであろうか。

(3-20)  切手
    東京オリンピックの頃、切手ブームとなり、私も収集を始めた。記念切手が発売されるたびに郵便局に行った。デパートで購入したこともあった。地元の郵趣会で譲ってもらったものもあった。親類や家族の知人からも譲ってもらった。ニュージーランドの文通相手からも届いた。その収集は就職するまで続いた。
    しかし、次第にブームが下火となり、1990年頃に手放すことにした。単片では売却することも困難であり、使用できるものについては手紙に貼って使用した。国際文通週間シリーズも国立公園シリーズも今はもう存在しない。
    使用済み切手や外国切手、1未満(銭や文)の切手については廃棄した。

(3-21)  姉の連れ合い
    姉の連れ合いは野球が大好きで、三萩野(みはぎの)で行われたプロ野球に私を連れて行ってくれた。帰路、かき氷をご馳走してくれた。
    姉の連れ合いは、姉と結婚する前のある日、焼き鳥をどっさりとお土産に持って、我が家にきた。私は、マンガでしか焼き鳥を見たことがなかった。初めて食べた焼き鳥は大変おいしかった。

(3-22)  ボート競技
    6年生の時(1965年)だったと思う。姉に連れられて、姉が勤務する地元企業の従業員有志によるボート競技の練習を見に行った。姉が、そこで姉の同僚とおぼしき女性に私を紹介した。その女性が、私に向かって「かわいいねぇ。」と言った。私は、「うん、よく言われる。」と答えた。彼女を含めて周囲の大人が苦笑した。姉が、その女性に「言わんほうが良かったやろ。」と言った。私は、その時大人の世界を少し学んだ。

(3-23)  ソフトクリーム
    これも6年生の時(1965年)だったと思う。兄が、最初の給料で、私をデパートの食堂に連れていってくれた。ソフトクリームを注文した。食べようとしたら、ソフトクリームが私の膝元に落ちてしまった。兄は、それを手で取って、もとに戻してくれた。

(3-24)  ツーリング
    これも6年生の時(1965年)だったと思う。兄が、バイクで少し遠出して滝見に連れて行ってくれた。ところが、現地でバイクが運悪くパンクしてしまった。兄は私を滝の前にある土産物店に預けて、同様にバイクがパンクしたという若者とふたりで近くの修理店まで歩いて行った。兄は私を預ける時に、私に菓子代をくれた。
    2時間くらい経過しただろうか。兄が、その若者の運転する軽トラックに乗って戻って来た。ほっとした。兄は、余った菓子代を返せと言った。

(4)  中学生

(4-1)  赤毛のアン
    私が初めて小説「赤毛のアン」に出会ったのは、中学生の時(1941年)であった。当時、我が家に「赤毛のアン」の文庫本があった。おそらく姉か兄が入手したものと推察される。それは、私にとって初めての文庫本であり、それまで目にした教科書や図書館本よりも文字が小さかった。それもあってか、当時の私には退屈な話であり、どこがおもしろいのか全く理解できなかった。しかし、後年、アニメ「赤毛のアン」を見てから、ファンになった。

(4-2)  伊東市
の伯父
    名古屋市の伯父が静岡県伊東市(いとうし)に転居した。私が中学1年生(1966年)の時に、母に連れられてその伊東市の伯父の家に行った。北九州市内から新大阪までは夜行列車であり、急行であったと推察される。ボックス席の普通車自由席であり、空席が1名分だけだったので、母が空席に座り、私は座席の下で仰向けになって寝た。隙間が狭くて寝返りを打つことはできなかった。新大阪から熱海までは新幹線を利用した。新幹線に初めて乗った。普通車自由席であった。当時はまだ時速200kmであった。さほど速いという印象は無かった。復路では寝台車を利用した。初めての寝台車であったが、ほとんど記憶していない。熱海から乗ったのか新大阪から乗ったのか、特急か急行かの区別も記憶が無い。夕食は食堂車を利用した。食堂車利用も初めてであった。

(4-3)  修学旅行
    修学旅行の行き先は、京都と奈良であった。北九州市内の駅から京都駅まで、往路も復路も昼行列車で移動した。急行型のボックス席であった。修学旅行専用列車だったのかもしれない。泊数は記憶していない。

(5)  高校生

(5-1)  修学旅行
    修学旅行の行き先は箱根と東京であった。北九州市内から新大阪まで列車移動であったと推察されるが、どのような列車であったか、全く記憶していない。新大阪からは新幹線を利用した。往路は小田原(おだわら)駅で下車したものと推察される。復路は東京駅で乗車したと推察される。泊数は記憶していない。

(5-2)  入試
    自宅から入試会場まで片道2時間要した。入試会場近辺に宿泊するのではなく、自宅から通った。当時の主たる交通機関は国鉄のみであった。今、「もし事故か何かで不通になっていたら」と考えると震えが来るが、当時は、そのようなことを考えたことはなかった。母も全く言及しなかった。
    2日間の入試は何ごとも無く終了した。受験番号が4648(ヨロシーワ)であったことが効いたのか、無事に合格できた。合格を知った瞬間、脳から情報が消失するのを感じた。

(5-3)  伊東市の伯父
    高校卒業時(1971年)に、ひとりで静岡県伊東市
(いとうし)の伯父の家に行った。北九州市内から新大阪までは往路も復路も「特急はと」を利用し、新大阪から熱海(あたみ)までは新幹線を利用した。地元の駅前にある日本交通公社(現:ジェイティービー)に行って切符を購入したが、当時は切符のルールもわからず、全て自由席にした。

(6)  大学生

(6-1)  ユースホステル
    大学入学直後に、ユースホステル同好会に入会したが、2か月後に退会し、地元の社会人中心のユースホステル同好会に入会した。そこも半年くらいで退会し、地元の学生を募って、ユースホステル同好会「ゲリラ」を設立した。新聞の地方版に募集記事を出して参加者を募り、地元の公民館に集合した。次回以降の集合場所は喫茶店を利用した。ゲリラのメンバーとともにグループ旅行を繰り返した。グループ旅行を楽しむ中でミニ周遊券を知ることとなり、急行自由席を利用することが多くなった。また、時刻表にも親しむようになり、切符のルールにものめりこむようになった。その後、ひとり旅をするようになった。ワイド周遊券やミニ周遊券を利用した。北海道ワイド周遊券では、夜行列車の普通車自由席を寝床にした。
    ユースホステルについては通算して120泊ほど利用した。その中には、韓国における2泊が含まれている。今では全く自慢にならないが、その韓国旅行は、私にとって唯一の海外旅行である。パスポートとビザを自分で申請し、予防接種も受けた。「下関(しものせき)⇆釜山(ぷさん)」間を関釜(かんぷ)フェリーで往復した。ふだん私が旅行に行く時は、母から行き先や帰宅予定日を聞かれたことは無かった。しかし、この時はさすがに兄が、宿泊先を書いておけと言った。

(6-2)  同棲時代
    同棲時代ということばが流行語になったことがある。上村一夫の漫画であり、その漫画がヒットし、映画もできた。映画では「由美かおる」が主演し、主人公「今日子
(きょうこ)」を演じた。「由美かおる」扮する今日子の目が漫画の今日子の目にそっくりであった。大信田(おおしだ)礼子が主題歌を歌った。
    デパートでアルバイトしていた時のこと、新聞社から私に電話がかかってきた。私の自宅に電話して、母から私のバイト先を聞きだしたらしい。以前、ユースホステル同好会の募集記事を地方版に投稿したことがあったので、新聞社は、こういう時のために、常日頃から投稿者の情報を記録していたものと推察される。
    用件は「同棲についてどう思うか」というものであった。私がその質問に対して言いよどんでいると、記者が、「同棲よりも駆け落ちのほうがカラッとした感じでしょうか。」と私に尋ねた。私は「そうですねぇ。」と答えた。翌日の新聞には、社会人、主婦、大学生の3名の意見が実名付きで紹介された。大学生の意見は「駆け落ちのほうがカラッとするなぁ。」というものであった。私は、そのような発言をした覚えはない。
    母は、近所の主婦から「あんたんとこは駆け落ちばい。」と言われたらしい。

(6-3)  兄の連れ合い
    私が大学生の頃、兄の連れ合いが、私に誕生日プレゼントとして、MG5(エムジーファイブ)1個と1,000円札1枚をくれた。MG5は、当時流行した、資生堂男性化粧品の銘柄である。
    私の母は農家の娘であったので、母の手料理は農家料理がほとんどであったので、洒落(しゃれ)た料理を味わったことがなかった。ある日、兄の連れ合いが酢豚を作ったことがあった。旨かった。後に、私が就職して帰省した際に、兄の連れ合いから、食べたいものを聞かれた。私はすかさず「酢豚」と答えた。


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